設計事務所のM&Aでデューデリジェンス(DD)を実施する際、一般的な中小企業向けのチェックリストをそのまま流用すると、後で致命的な見落としが生じます。建築士事務所登録の継続可否、一級建築士の在籍状況、設計著作権の帰属——これらは設計事務所ならではの論点であり、財務や法務の一般論では網羅できません。
本記事では、設計事務所のM&AにおけるDDで確認すべき項目を財務・法務・ビジネスの3分野に分けて整理し、売り手・買い手それぞれが事前に準備すべき内容まで解説します。
デューデリジェンス全体の種類・流れ・費用は、『デューデリジェンス(買収監査・DD)とは』で解説しています。
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設計事務所におけるデューデリジェンスとは何か——M&Aにおける調査の定義と目的
M&AにおけるDDとは、譲受企業(買い手)が対象会社を譲り受ける前に実施する精査調査のことを指します。財務・法務・税務・ビジネス(事業)の各分野について、対象会社の実態を多角的に検証し、リスクの有無と程度を判定します。
通常、基本合意書(LOI)の締結後に実施され、最終契約の前提条件として位置づけられます。DD中に重大な問題が発覚した場合、最終譲渡価格の引き下げ交渉(プライスアジャストメント)や、最悪の場合は条件交渉の決裂(ブレイク)に至ることもあります。
一般的なDDとの違い——設計事務所ならではの調査論点がある理由
一般的な中小企業のDDと比べ、設計事務所では以下の論点が追加で発生します。
第一に、業務遂行の要件として建築士事務所登録が必要であり、M&A後に登録内容の変更届を提出しなければ業務継続ができなくなるリスクがあります。第二に、設計業務は有資格者(一級建築士・二級建築士等)が担っており、その人数と在籍状況が企業価値に直結します。有資格者が数名しかいない小規模事務所では、1人の退職が業務不能に直結しかねません。第三に、設計成果物(設計図面・仕様書・意匠)には著作権が発生しており、権利の帰属が会社か個人かで譲受後の扱いが変わります。
不動産会社のM&AにおけるDDでは宅建士の在籍確認が必須となるのと同様に、設計事務所のDDでは一級建築士の在籍確認が必須の論点となります。
DDを実施するタイミングと所要期間の目安
DDは通常、基本合意書の締結後から最終契約(SPA)の締結前までの期間に実施します。設計事務所の場合、財務DD・法務DD・ビジネスDDを並行して進めることが多く、対象会社の規模や資料整備状況によって異なりますが、小規模事務所(従業員10名以下)で2〜4週間、中規模事務所(従業員10〜30名)で4〜6週間程度が一般的な所要期間の目安となります。
資料が揃っていない場合や、設計受注残の案件数が多い場合は追加の確認作業が生じるため、スケジュールに余裕を持って進めることが重要になります。
設計事務所のデューデリジェンスの財務調査で見るべき3つの論点
財務DDでは決算書・試算表・銀行口座・契約書等を用いて対象会社の財務実態を把握します。設計事務所特有の財務論点として、以下の3点を重点的に確認します。
売掛金の回収可能性——未収金の内訳と回収困難先の特定
売掛金残高の中に、回収困難あるいは回収不能な案件が含まれていないかを確認します。設計事務所の場合、小規模案件を多数抱えているケースでは、請求先ごとの内訳が会計システムで管理されておらず、「その他」でまとめて計上されていることが多いです。
確認すべきは、①各売掛金の発生日と回収予定日、②入金の遅延先とその理由、③3期以上継続して残高が変わらない固定化売掛金の有無——の3点です。特に、過去に工事が完了しているにもかかわらず入金が未確認の案件は、回収不能として価格調整の対象になります。
設計費の請求は設計完了後の後払いが多く、クライアント側の資金繰りや関係性の変化によって滞留するケースがあります。M&A実務の現場では「DDで売掛金の内訳を深掘りしたら、3年以上前の未回収がごろごろ出てきた」という事例も珍しくありません。
設計受注残の評価——進行中案件の採算性と完成リスク
受注残とは、契約は締結されているが設計作業がまだ完了していない案件の総額を指します。設計事務所では、受注残が多いほど将来の売上見込みが安定しているように見えますが、採算性と完成リスクの観点から精査が必要になります。
確認すべきは、①各案件の契約金額と進捗率(出来高)、②残作業の工数見積もりと採算性、③クライアントとの契約書の存在と内容——の3点です。口頭発注のまま書面化されていない案件が含まれていると、譲受後にクライアントが関係変更を理由に発注取り消しを主張するリスクがあります。
設計費の単価が設計開始前と比べて変わっている場合や、当初の設計範囲が途中で拡大しているにもかかわらず追加費用の取り決めが書面化されていない場合も、採算割れのリスクがあります。
減価償却不足と簿外債務——決算書では見えないリスクの確認方法
中小規模の設計事務所では、設備(CADソフトウェア・ハードウェア)の減価償却が適切に処理されていないケースがあります。また、社長が個人で負担してきた費用(社用車・保険料等)が会社の費用として計上されておらず、実質的には会社が負担すべき債務が帳簿外に存在することもあります。
DDでは、過去3期分の決算書をもとに、①減価償却費の推移と固定資産台帳との整合性、②役員借入金の内容と返済見込み、③退職給付引当金の計上状況(中小企業退職金共済〔中退共〕や退職金規程の有無)——を確認します。
特に退職金については、規程が存在するにもかかわらず引当金が積み立てられていないケースが多く、譲受後に従業員が退職した場合の負担額として価格調整の対象になることがあります。

設計事務所 デューデリジェンスの法務調査で見るべき4つの論点
法務DDでは、対象会社の法的リスクを契約書・登録情報・許認可等から確認します。設計事務所では以下の4点を必ず確認します。
建築士事務所登録の継続可能性——変更登録手続きと名義問題
建築士事務所として業務を行うためには、建築士事務所登録(都道府県知事登録)が必要です。M&Aによって会社の代表者や管理建築士が変わる場合、変更届を速やかに提出しなければなりません。
株式譲渡の場合、会社の法人格は変わらないため原則として登録はそのまま継続できます。一方、事業譲渡の場合は法人格が変わるため、新たな建築士事務所登録申請が必要になります。新規登録の申請手続き自体は比較的短期間で完了する場合もありますが、関係者への説明・合意形成の期間を含めると1〜2ヶ月程度の準備期間を確保しておくことが実務上の目安になります。その間の業務継続方法をDDの段階で確認しておく必要があります。
また、現在の登録が「社長個人の一級建築士資格を管理建築士として登録している」ケースでは、社長が退任後も一定期間残るか、後任の管理建築士を確保するかの対応が求められます。
一級建築士の在籍確認——キーパーソンの雇用契約と離職リスク対策
設計事務所の企業価値は、在籍している有資格者の数と質に直結します。特に意匠設計・構造設計・設備設計のそれぞれで一級建築士が在籍しているかどうかは、受注可能な案件の規模と種別を決定する要素になります。
DDでは、①有資格者全員の雇用契約書の確認、②資格証の実物確認(有効期限・更新状況)、③在籍予定に関する本人の意思確認——を実施します。特に、譲受の情報を知った段階で有資格者が退職意向を示すリスクがあるため、DDの段階でのコミュニケーション設計が重要になります。
不動産業界のM&Aにおいて宅建士の在籍確認と同様の重要度を持つ論点であり、有資格者が退職した場合の「業務継続への影響とその補填方法」を事前に取り決めておくことが実務では一般的に行われます。
設計著作権の帰属——成果物の権利関係と譲受後の使用許諾
設計図面・意匠は著作権法上の著作物に該当します。著作権は原則として創作者(設計担当者個人)に帰属しますが、職務著作の要件(会社の発意・職務として作成・会社名義での公表)を満たす場合は法人に帰属します。
中小規模の設計事務所では、従業員が個人の名前で設計を担当しており、著作権の帰属について明示的な取り決めがないケースが多いです。DDでは、過去の主要案件について著作権の帰属関係と、クライアントへの利用許諾の状況を確認します。
具体的なリスクとしては、①旧クライアントから設計図面の改変にあたり著作者人格権を根拠とした同意を求められる、②退職した設計担当者が著作者人格権を根拠に設計図面の改変や再利用への同意を拒否する——といった事態があります。
設計業務委託契約の引き継ぎ——契約相手への説明と同意取得
設計事務所は複数のクライアント(建築主・デベロッパー・ゼネコン)と継続的な設計業務委託契約を締結しています。M&A後に契約名義が変わる場合(特に事業譲渡の場合)は、相手方の同意を得ることが必要になるため、DDの段階でリスクを把握しておく必要があります。
継続的なクライアントとの取引は、設計事務所の収益基盤を形成します。DDでは、①主要クライアント上位5社の契約内容と更新状況、②特定のクライアントへの売上依存度(1社依存がある場合はリスク要因)、③クライアントとの関係が社長個人に依存しているかどうか——を確認します。

設計事務所におけるデューデリジェンスのビジネス調査で見るべき3つの論点
ビジネスDD(事業DD)では、対象会社の収益構造・競争力・成長可能性を評価します。設計事務所では以下の3点を重点的に確認します。
受注基盤の属人性——社長依存の発注構造と離反リスクの評価
中小規模の設計事務所では、受注の多くが社長の個人的な信頼関係や人脈に基づいています。社長が引退した後も同水準の受注を維持できるかどうかは、譲受後の業績継続性に直結するため、DDでの評価が重要になります。
確認すべきは、①主要クライアントとのコンタクトポイント(社長のみか、担当スタッフも関与しているか)、②社長不在時の案件継続実績(長期休暇・入院等)の有無、③次期リーダー候補となる幹部スタッフの存在——の3点です。
社長個人への依存度が高い事務所の場合、ロックアップ条項(一定期間の在籍義務)を最終契約に盛り込み、引き継ぎ期間を確保することで評価減を最小限に抑えることができます。
意匠・構造・設備の専門別による価値の違い——需要と難易度の差
設計事務所は大きく意匠設計・構造設計・設備設計の3分野に分かれており、M&A市場での需要と評価は分野ごとに異なります。
設備設計事務所は技術の専門性が高く、電気設備・機械設備それぞれの有資格者が希少なため、M&A市場での需要が高いです。構造設計一級建築士の在籍は構造設計事務所の価値を大きく左右し、有資格者が1〜2名の小規模事務所では在籍リスクの評価が特に重要になります。意匠設計事務所は競合が多く、ブランド力・デザイン実績・受賞歴がある場合を除いて高評価を得にくいです。
DDでは、対象会社が得意とする分野と、その分野において有資格者が組織的に業務遂行できる体制が整っているかを確認します。
外注構造と協力会社との関係——下請け依存が譲受後に及ぼす影響
設計業務の一部を外注に出している場合、外注先との関係が属人的であると、社長交代後に協力会社が離反するリスクがあります。また、外注費の比率が高すぎる場合は利益率の低下要因になります。
確認すべきは、①主要外注先との契約書の存在と取引条件、②外注先との窓口担当者(社長のみか、担当スタッフも関与しているか)、③外注費の売上比率の推移——の3点です。主要外注先との書面契約を締結し、引き継ぎ窓口を複数化しておくことがリスク軽減策になります。
設計事務所のデューデリジェンスでよく発覚するトラブル事例と対処法
有資格者が一斉退職するリスク——DDで確認すべき人事情報
M&Aの交渉が始まったことを社内で察知した有資格者が、「将来への不安」を理由に退職を検討するケースがあります。特に、社長と個人的な関係を持つベテランスタッフが辞める場合、後任の確保が困難になりやすいです。
DDの段階では、①全スタッフの雇用形態と雇用期間、②各スタッフの保有資格と担当案件、③給与水準と市場相場との比較——を確認し、離職リスクの高い人員を把握しておきます。
情報管理の観点から、DD開始時点ではスタッフへの開示は最小限にとどめることが一般的です。譲受企業の代表と売り手企業の幹部スタッフとの面談は、基本合意締結後・最終契約前の段階で実施し、雇用継続の意思確認と処遇の擦り合わせを行います。
口頭合意のまま契約書が存在しない発注案件——書面化の対応方針
設計業界では、長年の取引関係から「口頭で発注を受け、設計を進めながら後から契約書を締結する」という慣習が残っているケースがあります。DDでは口頭発注案件の存在を把握し、クライアントに書面化を打診する必要があります。
書面化が困難なクライアントについては、DDレポートにリスクとして記載し、価格調整の根拠とします。また、最終契約の表明保証(Representations and Warranties)条項において、「対象会社の主要な取引に関する契約書は開示されており、重要な口頭合意は存在しない」旨の表明を取ることで、譲受後のリスクをある程度ヘッジできます。
DD後に価格が大幅に下がるケース——ディスカウント要因の主なパターン
DDの結果として価格調整が発生しやすい要因は、以下の通りです。
「回収困難な売掛金」は金額の100%が純資産から控除される要因になります。「未積立の退職給付引当金」は見積もり額が純資産から減算されます。「有資格者の人数不足」は将来の業務遂行能力への懸念として、のれん評価の引き下げ要因になります。「受注残の採算悪化」は将来収益の下方修正要因として価格交渉のテーブルに上がります。「建築士事務所登録の引き継ぎ困難」は事業譲渡の場合に特に問題になります。
売り手として事前に把握し対処できる論点も多いです。特に「売掛金の整理」「退職金規程と引当金の整備」「主要案件の契約書面化」は、DDを迎える前に着手できる準備事項です。

売り手・買い手それぞれが設計事務所 デューデリジェンス前に準備すべきこと
売り手が事前に整えるべき4つの書類と情報
設計事務所の経営者がM&Aを検討する段階から準備を進めることで、DDをスムーズに進め、価格交渉を有利に進められる可能性が高まります。準備すべき4つの事項は以下の通りです。
【1. 売掛金台帳の整備】:売掛金の請求先・発生日・回収予定日・未回収理由を一覧化します。口頭合意の案件については書面化を進め、整理できないものはリストに注記しておきます。
【2. 有資格者リストの整備】:在籍する建築士(一級・二級・設備設計一級建築士・構造設計一級建築士)の氏名・保有資格・雇用形態・雇用期間を一覧化します。資格証のコピーも事前に取得しておきます。
【3. 建築士事務所登録証の確認】:現在の登録内容(管理建築士の氏名・登録番号・有効期限)を確認し、更新が近い場合は事前に更新手続きを済ませておきます。
【4. 主要案件の契約書面化】:進行中の受注残について、口頭発注になっているものを書面化します。クライアントへの打診が難しい場合は、覚書・注文書の取得でも対応できます。
買い手が確認リストとして持参すべき論点
買い手として設計事務所のDDを進める際は、以下のチェックリストを軸に確認を進めます。
財務面:①売掛金の内訳と回収可能性、②受注残の採算性と完成リスク、③退職給付引当金の積立状況、④役員借入金の内容と返済可否。
法務面:①建築士事務所登録の継続可否(株式譲渡か事業譲渡かで対応が異なる)、②有資格者の雇用契約書の確認と在籍確認、③著作権の帰属に関する社内規程または契約書の確認、④主要クライアントとの契約書の存在と継続見込み。
ビジネス面:①社長依存の受注構造の程度と次世代幹部の存在、②設計分野(意匠・構造・設備)と有資格者の種別・人数、③外注先との関係と協力会社リスト。
【まとめ】設計事務所のデューデリジェンスは業種特有論点を押さえた専門家に依頼する
設計事務所のM&AにおけるDDは、建築士事務所登録の継続可否・有資格者の在籍確認・設計著作権の帰属・受注残の採算性——といった業種特有の論点を見落とさないことが前提になります。一般的なM&Aのチェックリストでは対応できない項目が多く、設計業界の実務を理解した専門家のサポートが不可欠です。
売り手の経営者にとっては、DDは「自社の弱点を晒される場」ではなく、「実態を正確に伝えて正当な評価を受ける機会」として捉えることが重要です。特に、売掛金の整理・有資格者情報の整備・受注残の書面化は、M&Aの検討を開始した段階から着手できる準備事項であり、DD後の価格調整を最小限に抑えるための有効な施策となります。
設計事務所のM&AやDDについて専門家への相談を検討している場合は、設計事務所・建設業界のM&A案件に実績を持つ専門家への問い合わせから始めることを推奨します。船井総研あがたFASでは設計事務所をはじめとする建設・建築業界のM&A支援を行っています。
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よくある質問
Q.設計事務所のデューデリジェンスはどのくらいの期間がかかりますか?
A. 従業員10名以下の小規模事務所で2〜4週間、10〜30名の中規模事務所で4〜6週間が目安です。受注残の案件数が多い場合や資料整備が不十分な場合は追加の確認作業が生じるため、LOI締結前から主要案件の契約書面化と有資格者リストの整備を進めておくと期間を短縮できます。
Q.建築士事務所登録は株式譲渡と事業譲渡でどう違いますか?
A. 株式譲渡では会社の法人格が変わらないため登録は原則そのまま継続でき、管理建築士の変更届提出程度で済む場合がほとんどです。事業譲渡では法人格が変わるため新たな建築士事務所登録申請が必要です。関係者への説明・合意形成の期間を含めると1〜2か月程度の準備期間が実務上の目安です。
Q.設計図面・CADデータの著作権が社員個人に帰属している場合、どんなリスクがありますか?
A. 退職した設計担当者が著作者人格権を根拠に設計図面の改変や再利用への同意を拒否する事態が起きる可能性があります。DDでは主要案件の著作権帰属に関する社内規程または契約書を確認し、問題がある場合は職務著作の要件を満たす形で就業規則を整備するか、対象スタッフから利用許諾書を取得することが対処法になります。
Q4.設計事務所のDDで売掛金の回収不能が発覚した場合、価格はどう変動しますか?
A. 回収困難と判断された売掛金は金額の100%が純資産から控除される対象となります。例えば300万円の回収不能売掛金であれば、その分が株価から直接引き下げられます。DDの前に請求先ごとの発生日・回収予定日・未回収理由を一覧化し、3年以上固定化している売掛金は早期に整理または注記しておくことが重要です。
Q5.設計事務所M&Aで一級建築士が複数いる場合、評価にどう影響しますか?
A. 意匠・構造・設備の各分野に有資格者が揃っている体制は、受注可能な案件の規模と種別を広げるため高評価につながります。特に設備設計一級建築士・構造設計一級建築士は希少性が高く、在籍者数が多いほど評価がプレミアムになります。反対に有資格者が代表1名のみの場合、その人物の離職が業務不能に直結するため減額リスクとして評価されます。